【要確認】宜しくご教示願います。

前提条件が人と違うようで、会話が成り立ちません。どうしたらよいか教えて下さい。

車イスの同級生にしたことは、差別だったのか。

ゲームのなかでも厚着してる、

心の南国育ち、あやコムだよ★

 

※前回の記事の続き。

 

ayacom.hatenablog.com

 

高校生のころ、車イスの女の子がクラスメイトにいた。

彼女とはほとんど話をしなかったけれど、

ある日の朝、彼女が一階の廊下でぼんやりしていた。

 

どうしたの?と聞くと、

室内用車イスを保管していた部屋の鍵を忘れてしまった、

とのことだった。

 

そういうときは、どうしているかと聞いたら、

先生が合鍵を持っているので通りかかるのを待っている

とのことであった。

 

「じゃあ職員室の先生呼んでくるから少し待ってて。」

といったら、

「いやいや!!悪いよ!悪いからいいよ!」

と断られた。

 

いやいや、自分一人で解決できないことを

人に頼ることを悪いなんて思う必要ないよ、と思ったが、

 

当時はひとまず

「大丈夫だから。寒いし、ちょっと待ってて。」

とだけ言って先生を呼んだ。

 

そもそもあやコムから聞かなきゃ彼女は言わなかった。

こんな小さなことでさえ悪いと思いながら生活するなんて。

そのことがなんだか寂しくなった。

 

彼女が体育でプールに参加し、

きっちり25m泳ぎきったとき、拍手がおきた。

(もちろん、先生がすぐ近くにいた。)

 

あやコムの友人は、「拍手は違うよね」と言ったけど、

(差別だよね、って意味だと思う。)

拍手する気持ちは分かるなあ。と思った。

 

そもそも健常者で泳げる人だって

足が全くつかない深いプールで泳ぐのって怖くない?

あやコムは怖い。

だから、すごいなと思った。

これ、差別?

 

もし彼女がプールを見学するとして、

それ、差別?

 

彼女は今、どこで何をしているか、わからないけど、

立派なオバサンになって、

手伝ってもらうことになにも悪いなんて

思わないでいてくれるとよいな。

 

差別ってなにかしら。

あの日、声をかけたあやコムの行為は差別だったのか。

あの日、泳ぎきった彼女をすごいと思ったあやコムの心に

差別があったのか。

 

映画「チョコレートドーナツ」の中で、

ゲイカップルの一人が憤る

 

「これは、差別だ!」

 

もう一人がいさめるように、

 

「これは、現実だ。」

 

と、つぶやく。

 

 そこには、

個人的な嫌悪が、世間の風潮もあいまって

絶対に間違っているのに、

あたかも個々の仕事をしただけという

正義のように、差別が存在した。

 

嫌悪感の正当化を

正義なんて言ってはならない。

 

嫌いであることは、

個人の自由だ。

思想の自由だと思う。

これだけは、聖域だと思う。

 

だけど嫌いであることと

正しいことは混同してはならない。

 

差別とは

個性的な個人を雑にひとまとめにして

個人的な嫌悪を正当化する

誤った正義感?

 

厄介な考えが渋滞してらあ!

こりゃなかなか、無くならないはずだわ、、、。

 

頭がよくて、

善良な方、

助けてください!

 

あやコムのようなアホに教えてつかあさい!

 

あやコムは間違っているんでしょうか。

 

宜しくご教示願います。